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ひさびさに、なんでわたしってこんなに頑張らずに生きてるの?のモード


なんにも頑張れないしてか頑張りたくないし。みたいなわがまま。一生懸命生きてるひとちょうすごくて、こんな適当に生きてるわたしみたいなにんげんぜったい嫌いだよねておもう


歯のために9万払ったのに入れる前に死ぬのだけは勘弁。だから死ねない、けど、まじで生きてるのって面倒なことしかない頑張れないし人生キモいし早くフェードアウトしたい


なんでこんなに頑張れない努力できないにんげんになってしまったんだろう。いやまあ、ずっとこんなかんじだったか。そうかも。そうだよね。


過去の栄光(と言えるほど栄光でもないもの)にいつまでも、いつまでも。むかしのじぶんにはできてたけど、いまのじぶんにはもう到底できないこと。そういう、過去のことずっと引きずって考えて、やろうと思えばできるけどそれほどの熱意も精神も備わってない。なんでこうなっちゃったのかなあ


どうして頑張れないんだろうと思えるうちは、どこかでまだ頑張りたいとおもえているからいいのかもね、ずっとそのまま、頑張れないから同じだけどね

1年以上前に書いていたお気持ち長文が出てきて、でも私って結局ずっとこれだなと思ったのでまた公開することにした。今読み返すとあまりに拗らせすぎてて結構ヤバいからちょっとだけ修正した。まあ言ってること今とあんまり変わらんけど


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好きという概念、ちょっと考え始めると怖くなってきませんか?好きとか嫌いとかって、なんなんだろう。でも好きになろうと思っても好きになれないこともあるし、逆も然りだし


でもどんなに好きでも大したことない一言で人のこと嫌いになっちゃってSNS全部ブロックとかしちゃうし、同性に対しても私だけが一方的に好きなんだなと気づいた時に無性に虚しくなるあれはなんなんだろう。仲良いとおもってるけど、自分の中でのその人への「友達」の枠と、相手にとっての「友達」が別枠なんだなと気づいたら悲しくて、上手く笑えなくなる。


でもそれって結局自分がわがままなだけで、自分と相手の好きのレベルが一緒じゃなきゃ関係を続けていけないって、かなり哀れなことだなと思ったりもする。でもやっぱり人間関係を続けていく上で悲しいなと思うことは、どんなに大人になろうとも変わらないことなんだな。


そもそも私の大学やめたのって大学にあまりに友達がいなくて、最初こそ気張って頑張ってたけどある日お弁当を一人で食べながら悲しくなってきて、後期の教科書を買った翌日にやめることを決めたクソ理由なんですけど。

「いや私一人でも全然生きていけるんですよ〜」「友達とかに頼らなくても一人で頑張れるんで〜」みたいにカッコつけてた自分の方が100倍ダサいし、今あの頃のこと考えてもキショすぎて自分のことどんどん嫌いになる。

というか思えばスーパーのバイトやめたのも、ホテルのバイト途中でやめて帰ってきたのも、全部周りに頼れる人がいない辛いって逃げ出してきただけだし、結局こういう生き方って一生変わらなくて、私はこのまま永遠に嫌なことから逃げ続ける人生なんだろうな、とこの20年間を振り返って実感する。

高校へ通わなくなったのも、あの時どうにか頑張って学校に行って言葉を交わしてお互いの誤解を解いたりすればどうにかなったかもしれないのに、向き合わずに逃げたのは全部自分なんだよ。


結局なにが言いたいのか分からなくなってきたな。まあとにかく愛は難しいし関係を築くことは辛くて大変だしできることならやめたいはずなのに、いつでも求めてるのは私でしかないなって気づいた。しかもそれがダサいしキショいし人生最悪じゃん。早く人間やめたい


絶対馴染めるはずがないと思っていたバイト先で意外とちゃんと生きていけている自分に気がついて驚いたし、ツイートが暗すぎることを暗にほのめかされているので裏垢と揶揄されないようにわざわざブログに長文感情書くとこもキモいな。

最近tiktokばっかり見ていて、あそこで楽しそうにしているたちは全員良い意味で自分のことが好きで、きっと認めてくれたり肯定してくれる人たちがたくさんいるんだろうなと思ったら悔しさと自分への慈悲の心が湧いた。

わたしって自分のどこのことだったら肯定できるんだろう。あー早く全肯定してくれる人間現れないかな。おやすみなさい

楽しい

なんとなくまたブログというものが書きたくなったのでつくりました


消したり消さなかったりしてるからわたしのいままでのブログもたくさんあって、そしてこれも、

もしかしたらわたしが死んでも、ネットという大海原に言葉だけはずっと残るんだと思ったら、嬉しい気もするし、どちらかというと嫌な気がするな


わたしは以前からmemento moriという言葉が好きだったように死についてよく考えることがあるんです。

死にたかったから、というよりは単純に死ぬことに興味があった。というか、死んだ後?

昔から死にたいなー!と軽々しく口にしては、言ってみてただけで多分本当に心の底から死にたいと思ったことはなかった気がします。

そして多分それは周りにも伝わっていたから、昔からどんなにツイッターがきしょくても「どしたん?話聞くよ?」みたいな心配をされたことがない。いやそれはどうでも良いんですが


死んだらどうなると思いますか?

わたしは前世とか来世とかにすごく興味があって、それを調べようとか詳しく学ぼうと思ったことはないのですが… あ、でも気になるな。こういうことについて勉強するのもありかも。まだ人生長いし。

これは昔のブログでも言ったことあるんですけど、私がこの人生を送れるのってたった一度きりなんですよね。いや私だけじゃなくて、全員そうなんですが。

もしかしたら来世もまた人間になれるかもしれませんが、それは私であって私ではなくて。転生に何年?何万年?掛かるのか分からないし、今一緒にいる人たちと生きていられる私の人生は、今だけなんだな〜みたいな。

そういうことをずっと、6年とか7年とか考えてて。だから何?って話なんですけど。

以前は、だから楽しく生きなきゃ!というようなことを書いていた気がするんですけど、今はどうだろう〜。


でもこう、思い返してみるとわたしの人生ずっと楽しいかもしれない。

両親もお姉ちゃん達のこともとても大好きで、衣食住しっかりあって、こんなふうに何も考えずおちゃらけて生きていても、お金もなくても、わたしは許されていて。

世の中には、金銭的な理由で学業を諦めなければいけない人がたくさんいる。わたしは親に払ってもらったお金で大学に入学し、たったの半年で辞めた。

どんなに望んでも手に入らないものって、環境かもしれないね。わたしはきっと誰かが死ぬほど手に入れたかったはずの環境を、何もせず手にしているのに、無駄にしているんだと思います

そういうことを考えて、どうしてわたしはこんなに恵まれた環境でこんなにもダメな人生を送っているのかと、やるせないきもちになるよ


生きてるだけで偉いなんて、ぜんぜんそんなことない。少なくともわたしは、生きてるだけじゃぜんぜん、ダメなのに。


まって、あのさ、何が言いたいのかどう終わらせるか、みたいな着地点見失ったままずっとしゃべってる。

と、まあ正気に戻ったところでキリがいいので強制終了です。このタイミングを逃すと一生喋り続け、そのまま地獄に落ちてしまいそうなので